村松山大神宮さんぽ②「徳川斉昭公と村松晴嵐の碑」

2016年2月9日|修業日誌

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村松山の大神宮を散策していると、「水戸八景 村松晴嵐」の看板を見つけました。

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まだ訪れた事がなかったので、「東海村民として要チェック!」と向かってみることに。

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節分祭の時期ということもあり参拝客は多かったのですが、こちらの道は人影もなく、静かな村松山の森の中を1人黙々と歩いていきます。

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虚空蔵尊の三重塔。

太陽に照らされる塔を森の中から眺めると、より美しく見えますね。

 

そして、辿り着いたのが立派な松の樹に囲まれた「村松晴嵐の碑」です。

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この地を訪れた水戸藩第9代藩主、徳川斉昭公が
真砂地に雪の波かと見るまでに 塩霧はれて吹く嵐かな
と歌を詠み、水戸藩の景勝地「水戸八景」の一つとして、村松晴嵐と命名したそうです。

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1834年に建てられた碑の文字は斉昭公の書です。

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「最後の将軍」徳川慶喜公の実父である徳川斉昭公は、藩政改革に成功した幕末期の名君として知られています。

藩校・弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く優秀な人材を登用しました。

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また、斉昭公は徳川光圀公が編纂した「大日本史」に始まる水戸学を継承し、幕末の尊王攘夷論の魁としても活躍しました。

(斉昭公の命で書かれた弘道館「二大字尊攘」)

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黒船来航を機に「幕府海防参与」に就任し、蘭学者の登用や西洋砲術の導入、洋式軍艦「旭日丸」の建造など先進的な西洋技術を取り入れた軍制改革を行いながらも、強硬な鎖国攘夷論を主張します。

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結果、日米修好通商条約に調印した開国派の大老・井伊直弼らと激しく対立し、安政の大獄で永蟄居を命じられ、まもなく失意のまま心筋梗塞で亡くなりました。

没後はその苛烈な生涯とカリスマ性から「烈公」の名で多くの志士達に崇拝されました。

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志半ばで亡くなった斉昭公ですが、「尊王攘夷」という思想は幕末の志士たちのアイデンティティとなり、やがて「倒幕」へと展開して「明治維新」へと繋がっていきます。

 

斉昭公が訪れた当時の村松海岸は現在とは違い、もちろん原発も防砂林も無く、決して風光明媚とはいえない広大な砂丘でした。
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太平洋の風を受け、晴天の嵐のように白砂が舞う寂漠とした風景。

黒船来航の脅威に対峙し、幕末の動乱を激しく生きた烈公だからこそ、「村松晴嵐」と名付けその美しさを見出したのではないかなと思ったりしました。

 

帰り道をトボトボ歩いていると、もう一つ石碑を見つけました。

北茨城市で育った歌人の佐藤佐太郎さんの歌碑です。

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個性的な字でちょっと読みにくかったのですが、

晴れし日の砂山の上濡石は みづから濡れて膏(あぶら)のごとし

と書かれています。

 

佐藤さんが村松の地を訪れた時、四季を通じて濡れていて、愛好家に「濡れ石」として親しまれていた村松晴嵐の碑に強く興味を示したそうです。

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そして、「老境に近づいてこういう対象にも興味をもつようになった。石はたとえば体内から汗か脂肪でもしみ出るような状態である」と言って読んだ歌です。

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読みにくいなーと思った個性的な字は佐藤さんの直筆だそうです。

そう思うとなんだか味のある字のような気がしてきました。

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しかし、近年は周辺整備の影響か、佐藤さんが感動した濡れ石も今ではほとんど濡れることがなくなってしまったそうです。

ちょっと残念ですね。

 

大神宮と村松晴嵐の碑を見学し、そろそろ帰らなきゃとと思うと、境内に「村松海岸砂丘 海まで1km」の看板が。

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迷いましたが、1kmと言われるとそんなに遠くないような気がして

「どうせここまで来たから行ってみよう!」

と海まで歩いて行くことにしました。

 

「村松山大神宮さんぽ その③」に続きます。

 

2016年2月9日|修業日誌